垂水ゴルフ倶楽部の歴史について

2.パブリックコース時代(1932年~1943年)

舞子カンツリー倶楽部解散と同時に、会員の大半は廣野ゴルフ倶楽部へ移り、土地は宇治川電気株式会社(後の山陽電鉄(株))の傍系会社である新興土地建物(株)に売却され、太平洋戦争突入に至るまでパブリックコース 舞子ゴルフ場として多くのゴルファーに利用された。しかしながら戦争激化の影響により1943年(昭和18年)8月舞子ゴルフ場は閉鎖。
1932年(昭和7年)当時、関西にはパブリックコースとして西宮上ヶ原地区に6ホール700ヤードのサンドグリーンのミニコースがあった程度であったが、コースの手入れも行き届き、堂々たる倶楽部ハウスを備えたパブリックコース舞子ゴルフ場が誕生したことにより、関西におけるゴルフの民衆化に大きく貢献したと、当時のゴルフ専門誌に記録が残されている。

3.戦時のため一時休止(農園として利用された)時代(1944年~1951年)

1944年(昭和19年)、当時太平洋戦争激化により食糧難に見舞われる中で、軍需工場として多くの徴用工を抱えていた三菱重工業(株)神戸造船所が、食料補給のためにゴルフコースを新興土地建物(株)より購入。終戦時にはゴルフコースは芋畑などの姿に変わっていたとされている。戦後も1951年(昭和26年)垂水ゴルフ倶楽部発足までの厚生農園として活用された。

1932年(昭和7年)
7月
新興土地建物(株)に土地売却
1932年(昭和7年)
9月
パブリックコース舞子ゴルフ場としてスタート
1941年(昭和16年)
12月8日
(太平洋戦争勃発)
1943年(昭和18年)
8月31日
舞子ゴルフ場閉鎖
1944年(昭和19年) ゴルフコースと倶楽部ハウスを三菱重工業(株)に売却 (以降食料補給の厚生農園として使用される)
1949年(昭和24年)
舞子リンクスの復興について話し合われる