垂水ゴルフ倶楽部の歴史について

1.舞子カンツリー倶楽部時代(1920年~1932年)

日本で最初に開設された神戸ゴルフ倶楽部から19年遅れることの1920年10月、当時ゴルフを始めたばかりの南郷三郎氏、久保正助氏らが発起人となり、日本で5番目に創設されたのが舞子カンツリー倶楽部(現在の垂水ゴルフ倶楽部の前身)である。

開設時は9ホール2482ヤード。(後に12ホールに拡張)。設計者はジョー・アーネスト・クレーン

この時、日本初のプロゴルファーである福井覚治が、プロゴルファー兼キャディーマスターに任命されている。

神戸ゴルフ倶楽部は創設者のブルームをはじめとする外国人が主体(日本人会員は10%程度といわれている)であったが、舞子カンツリー倶楽部開設以降、京阪神の日本人によるゴルフ熱が急速に高まったとされている。

▲舞子カントリークラブ時代の倶楽部ハウス

引用サンプル****

昭和2年には、東京ゴルフ倶楽部とのインターマッチが開催され、日本ではじめての日本人主体の大会として、関西・関東アマチュア競技の先駆をなしてきた。

ほぼ同時期に設立された鳴尾ゴルフ倶楽部とインターマッチを開催するなど、鳴尾ゴルフ倶楽部とともに当時の関西ゴルフ界を牽引したてきたが、より本格的18ホールとして京阪地区に茨木カントリー倶楽部や阪神地区に廣野ゴルフ倶楽部などがその後開設され、次第に関西ゴルフ界から主役の座を降りることになった。

そして1932年7月25日舞子カンツリー倶楽部は解散。

名門廣野ゴルフ倶楽部は、18ホール化を夢見た舞子カンツリー倶楽部メンバーが母体となり創設されたものである。

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明治36年5月12日 (神戸ゴルフ倶楽部創設)
大正9年10月3日 社団法人舞子カンツリー倶楽部創設(垂水ゴルフ倶楽部の前身) 
大正11年4月23日 鳴尾ゴルフ倶楽部とのインターマッチ開催
大正13年4月29日 東京ゴルフクラブとの対抗競技実施 (昭和2年から始まった関西/関東アマチュア対抗競技の先駆となる)
大正14年5月10日 (茨木カンツリー倶楽部創設)
昭和7年6月19日 廣野ゴルフ倶楽部創設
昭和7年7月29日 舞子カンツリー倶楽部解散