垂水ゴルフ倶楽部の歴史について
4.垂水ゴルフ倶楽部として再開(1951年~1954年)
1949年(昭和24年)、当時、廣野・鳴尾・宝塚・茨木など戦前開設のゴルフ倶楽部が復活し、再び舞子リンクス再開の気運が高まった。
当時、神戸市楠町6丁目にあった練習場楠六倶楽部の今井英吉、田渕一雄、桑野義雄、長谷川作一が安くて気楽に回れるゴルフ場を作ろうと、旧舞子カンツリー倶楽部の再利用を提唱し、戦前パブリックを運営していた山陽電鉄などの多くの企業・団体の協力を得ながら、土地を所有していた中日本重工業(今の三菱重工業)と土地借用の交渉や、当時荒廃していたコースを整理するなど努力の結果、1951年(昭和26年)9月12日、ようやく垂水ゴルフ倶楽部として、再出発を果たした。
→垂水ゴルフ倶楽部 発起人
1951年(昭和26年)11月の会員数は385名。内訳は、特別会員19名(県知事や神戸市長など)、正会員193名、外国人会員24名、婦人会員20名、法人会員129名(25社)。
垂水ゴルフ倶楽部の開設時は9ホールであったが、本格的なコースへの脱皮を図るため、1953年(昭和28年)に18ホールへの改造に着手し、1954年(昭和29年)7月に待望の18ホール化が実現した。
18ホール化実現の年10月には、
高松宮殿下にプレイ頂いている。1951年(昭和26年)8月の会員数は780名。
1951年(昭和26年) 2月5日 |
発起人総会で舞子リンクスの復興を最終決定 |
1951年(昭和26年) 9月12日 |
垂水ゴルフ倶楽部創設(旧舞子カンツリー倶楽部) (9月23日正式オープン) |
1952年(昭和27年) 9月23日 |
再開業1周年記念行事挙行(式典競技・会員家族慰労会) |
1953年(昭和28年) 4月1日 |
18ホール化に向けての工事開始 |
1954年(昭和29年) 9月7日 |
待望の18ホール完成 |
1954年(昭和29年) 10月21日 |
高松宮殿下ご来場 |